初めまして、moticoと申します。
私は、夫、子供2人、犬1匹と地方で暮らしながら、在宅でWebデザインやSNS運用の仕事をしています。
土日祝日休み、残業ゼロ
ポジションは万年平社員
半年前までは、こんなどこにでもいる普通のアラフィフ平社員でした。
大きな昇給はないけれど、世帯年収は子供たちに習い事もさせてあげられるし、たまに贅沢も出来る位でした。
土日祝日休みで定時に必ず帰ることが出来る職場は、ほぼワンオペ育児であった私にとっていい職場だと思っていました。
ところが、ある日突然悲劇に見舞わまれることに。
地方に住む私は片道車で1時間の道のりを、渋滞に巻き込まれながら会社のある市街地へ通勤していました。
出勤し、いつものように事務所の掃除、お茶の準備をしてから自分の業務に就く。
社長は定刻少し前に事務所に入ります。
いつものように、出社してきた社長、すこし違う空気の中硬い面持ちでいる…
このパターンはいつもの、悪い話をするヤツだと、重い空気が漂っているのをひしひしと感じてはいました。
実はこの会社を閉じようかと思っているのですが、今後どうしたいのか皆さんのご意見を聞きたいと思っています。一週間の間にそれぞれ私に聞かせてほしいです。
コロナで暇になった時、賞与が減った時、仕事が減った時、数々の似たような場面を見てはきましたが、何とも言えない重苦しい空気が漂いました。
あの日の衝撃は今でも忘れられない今までの人生で指折りの苦い経験になりました。
安定してる企業に居たら、退職するまで昇給もするし、お金に困ることはないと思っていました。コロナで減った仕事もそのうち回復するから大丈夫だろうとも思っていました。
この先、親の介護、子供の学費、住宅ローン、老後の資金、
お金のかかるライフイベントしかない中で働かない選択肢はない。
明日会社が無くなる日かもしれない、という経験をした時思ったことは、
会社の都合に右往左往しない、
45歳、この先の人生、私は在宅で失業に怯えずガッツリ稼ぐ!
と固く心に決め、解散宣言の半年後に会社を辞める決意をしました。
このブログは、
アラフィフ平社員の私が会社を退職をし、1年後に月収30万円を達成する。
この目標を達成する過程を記していくブログです。
そして、
🔸アラフィフで転職に悩んでいる
🔸スキルも経験もないから先の人生に不安がある
もし今このようなことで悩んでいる方がいらっしゃったら、実際私が会社が無くなる危機に直面し、在宅ワークになるまでの経験をご紹介する中で、微力ながら新たな働き方のヒントになれたら嬉しいです。
アラフィフは人生山あり谷あり、以下長~い自己紹介文になるので、気長に覗いてやってくださいね!
基本情報

名前:もちこ
年齢:アラフィフ
家族:夫、子供二人(中3、小6)、犬(地方在住)
職業:フリーランス(WebデザインとSNS運用)
性格:ポジティブ、頑固、行動派
好きなもの:あんこ、酒、フェス、スポーツ観戦
幼少期~学生時代
幼少期~小学生
創作意欲強めインドア派。父の会社都合で転校。環境適応力を身につける。
中学生・高校生
勉強と部活に励むが、自由な校風の学校で遊びすぎて痛い目に遭う。
大学生
高校時代遊びすぎたことを後悔。真面目に生きる、本気で学ぶことが大切だと実感する。
就職、給料格差と社畜生活の始まり

短大を卒業し地方の地元企業に入社。
入社してみると、上層部も上司も、高校の先輩たちばかりでした。
高校の看板に助けられたと思いつつも、仕事はやりがいはあり、自分の努力で如何とも変わると思いまいした。
お客さんの話を聞き、接客の楽しさを知りました。
職場内の資格試験を受けまくり、業務で結果を出し、一般職から総合職へキャリアアップしました。
総合職になると、社畜生活が始まりました。
男性は営業、女性は内部の仕事を担当する職場でした。
そんな中、女性初の営業職に就くことに。
営業ランキングがあるのでやるしかない、と覚悟を決めました。
しかし、結果を出せば出すほどやっかまれる。
「本当に自分でとってきたの?上司に仕事分けてもらったんじゃないの?」
と嫌味を言われたり、無視されたり、陰湿な人もいました。
仕事はしなければならない、でもやるとやっかまれる。
終わらないから帰れない。
もう疲れたな。。。ストレスのピークだった。
真っすぐ家に帰る気にもなれず、遅くまで空いていたカフェに寄ることが習慣に。
私と同じように毎日22時過ぎまで働く夫と出会い、夫の転勤を機に退職を決めました。
地元企業に就職するものの男尊女卑の職場で社畜生活。
社畜は耐えられたけど、男性の嫌がらせはつらかった。
結婚~転職~妊娠~夫の転勤

再び社畜生活が始まる
前職で経験を生かし、宅地建物取引主任者(現 宅地建物取引士)の資格を取る勉強をしながら就職活動をしていました。
結婚、転勤のことは聞かれるが、運良く転職はできました。
仕事は楽しいけれど、勉強しながら不動産会社での仕事はハードなものでした。
毎日仕事が終わるのは22時~25時。
Web、広報担当になったため、不動産の勉強しながら広告やホームページの管理がメインの仕事になり覚えることでいっぱいでした。
不規則な生活ではありましたが、たくさんの経験をさせてもらう中で、やりがいも楽しさも感じていました。
転職1年半後、1回目の妊娠したものの初期に切迫早産で出勤できない日々を送ることになります。
有給を削る日々、これでは働けない、子供のことも大切にしたいけど仕事もやめたくない。
でも、子供がいたら同じ働き方をすることは難しいなと感じていました。
転職後、仕事は楽しかったが、激務。
妊娠を機に同じ働き方をする難しさを感じ夫の転勤を機に退職する。
仕事への葛藤
この頃、主人の転勤が主人の実家がある土地で一段落し引越し生活が終わりました。
そこで家を建てることに
家を建てると、夫の収入に頼るだけでは子供たちのために好きな事をさせてあげるのには限界がある。
かつて両親がしてくれたことを、私もできることは子供たちにしてあげたい。
やりたいと思ったことを諦めない人生を送ってほしい。
働きに出ようと決めたときから今でも私を突き動かす原動力となっていました。
いよいよ自分の収入が安定的に必要な時期が来る。
しかし、夫は土日も予定が入れば出かけなければならないため、ワンオペで育児をする生活をしていました。
この時私は32歳。
もう引越しをしなくていいから長くキャリアが積める会社を見つけなければ、と焦りはするものの、もう一人子供も欲しい。
いろいろ考えるものの、踏み出せずにいたました。
再就職~パートという働き方

子供が2歳になった頃、パートで仕事をすることにしました。
保育料は会社が考慮してくれたおかげで、未満児の高い保育料を払っても、手元にはお小遣い程度のお金が残りました。
しかし、パートでは安定した収入を得ることはできないことで悩んでいました。
働き始めて数か月後に妊娠…
元気なら会社もいてほしいから、ギリギリまで会社に居てね、と言ってくれたものの、その言葉に甘えていた矢先、2人目の妊娠も切迫早産になってしまいした。
1人目の妊娠の時より長く安静生活を余儀なくされる。
勤められない、そのことを伝えると、それでは仕方ないと、会社を辞めることになりました。
無理して働きに出ても結局いろいろな人に迷惑をかけてしまう。
自分で自立して安定した収入を得たい。
でも、子育てしながら働く方法を見つけることは難しいと葛藤する。
二人目が生まれた後、4月から一人目が3歳になり、保育園入園をしました。
下の子が生まれると、上の子は保育園に行くことを渋り、時に脱走もしたり、保育園の先生の手を煩わす子でした。
周りの子たちとは馴染めない大変なタイプの子であることが後に問題となります。
再就職~二人の子供の育児と正社員
今度こそ定年まで働ける職場へ
下の子が2歳になる頃、再び働くチャンスがやってきました。
「正社員、土日祝日休み、残業のないお仕事です!宅建(宅地建物取引主任者)所有者歓迎!」
偶然見つけた求人広告でやりたい仕事に出会ってしまいました。
これはチャレンジしないと後悔するかもしれない。
でもまだ2歳にならない子がいるのにどうやって働けばいいのか、でもあきらめたくない。
そう思ったとき、夫と夫の両親に相談をし、長い目で見て、もう転職せずに務められる職場に勤めることを相談、義両親の理解を得て再就職へ。
子供を育てながら働くことは楽ではない
仕事を始めるにはハードルがいくつもありました。
その中の一つが、
義実家から条件だった、子供たちを義実家のそばの保育園に転園させることでした。
義実家は過疎域だった為転園は簡単に出来ましたが、実際はそんなに簡単なことではありませんでした。
転園後3カ月間、下の子は一時保育でしか預かってもらえず早朝延長保育も利用できない。仕事が始まったばかりの頃は義実家の助けてもらい、なんとか正式に入園できる日を迎えました。
そして、毎日の通勤も過酷でした。
朝7時に家を出発し、会社とは反対方向の保育園へ向かう。
そこから1時間半以上かけて出社し、帰りも同じ道のりの往復。
仕事後は義実家に寄り、子供を迎えて帰宅すると、帰りは18時半を過ぎていました。
このルーティーンを約2年半続けました。
遅刻しそうだからと抜け道を車で走らせ朝の進入禁止に入り違反切符を切られるとか、
運転しながらこのまま目を閉じてしまいたいと思う位疲れた日もありました。
この生活を続ける中で、
自分が大変なのは我慢すればいい。
でも病気になる子供たちを見ていると申し訳ない気持ちになる日もたくさんありました。
「お母さんおしごとがんばって!」と言ってくれる息子に頼もしさを感じながらも、我慢させている申し訳なさはありました。
そんな生活を続ける中、義父の病気が発覚し、上の子のランドセル姿を見ることなく旅立ちました。
本来なら、小学校は家の近くの学校に通わせたいと思っていました。
でも義母を一人にできず、また、義母も子供たちと離れて一人になることが出来ない。
小学校は学区外のまま通わせることになり、周りの子たちとは違う生活が続くことになりました。
義実家の助けを借りながら、働き始めるものの、通勤は過酷。
義父が病に倒れ、早すぎる別れ。
本来は家の近くの小学校へ通わせたかったが、義母を一人にできず、学区外の学校を選ばざるを得なかった。
我が家の1度目の小学1年の壁
おそらく、世の中の「小1の壁」とは違う壁にぶち当たりました。
小学校に入学すると、1か月に1度の学校からの呼び出しが始まり。
先生の言うことを聞かない。お友達ともめる。けがをさせる。
学校の生活に馴染めない上の子を見て、
同級生のママから「仕事なんてやめて子供の面倒自分で見なさいよ」
と言われることもありました。
うちの子だけがなんで?
と泣いて子供を責めてしまったこともありました。
問題行動があるという理由から何度も小学校の先生と話し合う中で、発達の特性を知るためにWISCという検査を受けることを勧められ、何か解決の糸口になればと思い受けさせることになりました。
結果は、ある一定の能力が低い、グレー判定でした。
子供の話をもっと聞いてあげなければ…でも仕事をやめられない。
送迎時間を減らすため、家の近くの学校へ転校を考えました。
しかし、義母の反対で転校の機会を逃しました。
上の子が2年生になると、担任の先生が病院受診と、心を落ち着かせる薬を服用することを勧めてくるようになりました。
悩む中、義母が倒れ、家庭の負担は増し仕事に行くことが困難になりました。
小学校に上がり、周りと馴染めない子から問題行動をする子に。
子供と向き合わなければと思っていると、義母が倒れ、仕事、育児、に併せ看病のことを考えるようになる。
上の子の学童に入れない問題
義母は、体力の限界、心筋梗塞で倒れ入院してしまいました。
保育園、小学校、病院、会社、何か所も渡り歩くことがさすがに限界でした。
義母には申し訳ないなと思いながらも、夏休み明けから自宅近くの小学校保育園への転校、転園の手続きを進めました。
しかし、この時再び上の子の発達グレー問題が再浮上。
正式な診断は受けていないのに、学童施設から
「発達障害の子は預かれません」と伝えられる。
確かに、何か少し他の子とは違う部分があるものの、2年生になると息子は比較的安定した生活を送っていました。
仕事を続けられる可能性を求め、何度も学童や市役所と話し合い。
結局、働きたいと思っても、働ける環境はここにはないんだと思う事が次々と起きました。
そう思っていた時に、新しい学校の校長先生と教頭先生が、
「一旦前の学校での情報はクリアにして2学期を始めましょう。」
と言ってくださいました。
正直に伝えたけど、それでも大丈夫だと言ってくれました。
新しい学校での息子の様子は前の学校とは違いました。
環境が変わり、息子に対する見方が変わったこともあったり、本人自身の成長もあったのかもしれませんが新しい環境に馴染んでくれました。
今でもあの時の校長先生教頭先生に感謝しています。
義母も私たちの家に退院後は住むことになり、学童へは行かせず、息子のために犬を迎えることに。
義母の病気を機に転校転園するが、息子の発達グレー問題で学童から断られるも、新しい環境に馴染んでくれた息子。
義母と犬を加えた新しい生活が始まった。
再び小1の壁
下の子のことでも呼び出しが続き、仕事を続ける意味を見失い始めした。
通学路沿いの口うるさいおじいさんが、子供たちに小言を言うことがありました。
ある日事件は起きました。
学童へ行く道沿いにある家のおじいさん、ちょっと口うるさいため、下校途中で止まっている子を見るとちょっと小言を言うらしい。
下の子と同じように下校中のお友達が、通学路沿いに住むおじいちゃんに何やら小言を言われているのを見た娘は、おじいちゃんに向かって「水筒でぶったたくぞ!」と言い放ち走り去った、と学童の先生から報告を受けました。
本人の正義感もあったとは思うものの、再び二人目の子でも「発達グレー」問題と向き合うことに。
子供と向け合う時間が足りないのだろうか、と悩む。
今度は下の子のことで、学校からも呼び出されることも再び始まり、思うように働けない日も再び始まり、仕事を続ける意味がだんだん分からなくなっていました。
ついにコロナ期を迎える
1年生の壁に悩み、まだまだ問題は山積していたものの、子供たちはそれぞれに成長をしてくれてはいました。
そんなある日、コロナがやって来てしまいます。
楽しみにしていた習い事の発表会、遠征、それらはすべて中止となり、消えてなくなってしまいました。
進級後も学校へは行けず、家で過ごす時間は増えたが、そんな時でも私は仕事を休むわけにはいかなかった。
夫が昼休みに家の様子を見に来てくれていたものの、子供たちを家において出かけることに、罪悪感のピークでした。
「ゲームも出来るし、妹も犬もいるからさみしくないよ。大丈夫。」
と言ってくれる息子に頼りっきりの日々。
でも、友達とも会えない、見えない敵との戦い、先の見えない状況、心細くて不安だったと思います。
そんな中、コロナは私の会社も暇にしていきました。
そこで、週の半分を程度会社は休み、家で過ごす生活が始まりました。
会社に行くと社長はことあるごとに、会社は今仕事が激減している、収入がないというような話が出て、それを聞き、決して心は穏やかではない悶々とする日々を過ごしていました。
転職も考えましたが、当時下の子が小学2年生で、有給ゼロからの再就職は踏み切る勇気が持てずに転職活動は終了しました。
そんなもモヤモヤしていた時、スマホから流れて来た広告でオンラインで副業が出来ることを知ることになります。
オンライン学習をしながらWebデザインを習得できる!
そんな働き方があったのか、と当時は目からうろこでした。
半信半疑ではあったけど、不動産会社に勤務していた時のWeb経験が頭をよぎりました。
確かにWebデザインならパソコンだし、ネットだし出かけなくても家で出来る。
貯めてあった自分の貯金からパソコン代とスクールの費用をだし、学ぶことにしました。
Webデザインスクールの門をたたく。
コロナ禍初期は子供たちだけを家に残し仕事に行く日々。
罪悪感のピーク。
そのうち会社は業績不振になっていき、家で過ごす日々に。
在宅での働き方に出会う。
在宅で副業~解散宣言
会社は雇用調整助成金の制度を利用し、お給料を出してくれました。
でも、仕事は減っていたため、さらに一日の労働時間をカットして給料自体は2割減額されていました。
お給料が減っても贅沢しなければなんとかやっていけた。
でも、子どもたちに自由な選択肢を与えたいという想いから副業のために勉強をして始めました。
しかし、ツールが使えればいいわけではなく、基礎も何も分からない私には、3ヶ月ですべて学べるスクールと謳ってはいたが、実際に稼げるようになるには多くの時間を費やしました。
そうはいっても、デザインの仕事は楽しく、今となってはわたしにとって夢中になれるものになりました。
そんな中、ついに社長から会社解散しようかと思っていますが告げられることに。
一番考えたくなかった最悪の言葉に心中穏やかではなかった。
いつまでも会社があると思っていてもそれは違うんだ
そう思いました。
もう散々家族を犠牲にし、振り回してきた分、転職という選択肢は考えませんでした。
そう決めて、行動を開始しました。
しかし、最終的には社長は会社解散を撤回、会社は存続することになりました。
危機を脱しましたが、一度「会社がなくなるかもしれない」と思ったとき、もうこんな気持ちになりたくないと思いました。
Webデザインの勉強を始める。
楽しくて夢中になるが、学ぶばかりで収入には繋がっていなかった。
そんな中、社長の会社解散宣言。
在宅ワークをしていく覚悟を決める。
今、転職活動に疲れてしまったあなたへ
転職を考えているけど、年齢的に難しいのでは…これから何が出来るのだろう?という不安を抱えていませんか?
私は45歳で会社を辞め、在宅ワークを始めました。
本当に出来るのかな?そんなことを考えて不安ばかりでした。
でも、副業デザイナーの目標5万円は会社をやめる頃に達成できました。
これを達成した時、会社を辞めてもやっていけると思いました。
さて、この5万円の先はどうしようか、と思っていた頃、お仕事をくださるクライアントさんから、SNS運用をやりたいという言葉でした。
調べ始めると、SNS運用のやり方を教えてくれそうなスクールの中で「リモラボ」の存在を知ることになりました。
本を読んだり、SNS運用のことを調べてみたものの結局何をしたらいいのか、なかなかいい方法は見つけられなかった中でやっとこれだ!と思えたのが、リモラボ。
ここで学びながら月収10万円は達成できました。
まだ、それでは足りない。
さらに月収を30万まで引き上げるために、私は物が売れる仕組み、Webマーケティングを身につけることにしました。
アラフィフが本当に出来るの?と不安ですよね。
私は
退職1年後に在宅で月収30万達成する
この目標を掲げ実際在宅で働くために何をしたらいいのか、発信していきます。
もし、転職先を探し続けることに疲れたら、一度在宅ワークという選択肢を考えてみてほしいと思います。
今転職サイトを見て、自分は何が自分にできるのだろう?と悩んでいる、そんなあなたに、仕事が出来る場所は会社だけではないということを伝えたいと思います。
かつて私もそうだったから。
それが本当に達成できるのか、時々私のブログを覗きに来てもらえたら嬉しいです。
長々とお付き合いありがとうございました。